経済活動は資本主義と民主主義の両輪で成り立っている。
会社経営においても同じで、株主という資本家がいて、株主から経営を任された取締役がいて、
彼らが経営における意思決定責任を行う。取締役の選任は株主総会決議なので、最上位の意思決定が
株主によってなされるため、会社経営の根幹は資本主義といえる。
一方でその意思決定が強烈なトップダウンで行われない限りは、
従業員の意見を何かしら吸い上げて意思決定をするので、民主主義的な側面もある。
もちろん、全社員と直接会話をするわけにもいかないので、執行役員・部長・課長のような中間管理職を
通して現場の意見や課題を把握するというやり方が一般的で、間接代表性の民主主義といえる。
しかし、この資本主義や民主主義を両輪とした経営に限界を感じ始めている今日この頃なので、
ちょっとステップバックしてそもそも資本主義とはなにか?民主主義とはなにか?について考えてみた。
(といよりも学んで整理してみた)
そもそも資本主義とは
資本主義とは、
「すべての人が自由に利益を追求すれば、社会全体の利益が最大化されて、社会が幸福になる」
という根本思想にもとづいている。
利益をつくり出すための生産手段(工場・機械・土地など)を個人や企業が私有できるが、
生産手段を持たない個人は、自らの労働力を商品として生産手段をもつ資本家に提供し賃金を得る
という特徴を持つ。
また経済活動に国が関与せず自由競争を前提にしている。
つまり資本主義は「自由競争で利益を追求すればみんな幸せ」と考える。
反対に社会主義は、国が生産手段を公有化し、計画的に商品の生産・流通・販売・分配を行う。
1991年のソ連崩壊によって社会主義が機能しないことは証明されてしまったことで、
いわば消去法的に世界は資本主義に傾倒していった。しかし20世紀の前半は戦争が多く、
多くの国で商品やサービスが行き渡っていなかったので、利益が大きくなっていくこと、
すなわち世の中に多くの商品やサービスが生み出されていくことは、人々の幸福に直結していた。
また商品を多く生み出す努力をつづけていると、自然と生産効率が高まっていくため、
生産プロセスは高速化していく。近年ではテクノロジーの進化によって高速化は、
いわば光速化とも言えるほどスピードが速まっている。
なんでも即日・翌日が当たり前の時代である。
資本主義の限界?①
ここで大きな疑問が生じる。それは、その速さは人々を幸福にしているのか?ということ。
Amazonで注文した商品は、新品であればほとんど翌日に届く。
生活者としては欲しいものをすぐに手にできるので、とても嬉しい。
私もよく書籍を買うのでその嬉しさはわかる。便利な世の中になったなぁ、と毎回思う。
ちなみにAmazonがこの異常なまでの速さを実現できているのは、ピッキングや梱包をロボットが
実施しているためで、24時間365日、休まず稼働できる体制が構築されている。
一見、この仕組みは誰も不幸になっていないように思うが、実はそうではない。
Amazonの配送スピードが前提になってしまうと、消費者「翌日が当たり前」という感覚になる
したがってAmazon以外で買い物をするときに、悪気なく同水準を期待してしまい、
それより遅いと「え、そんなにかかるの?」と不満を感じるようになってしまう。
企業側が「すいません、うちはロボットでなくて人がやっているのでお時間いただきます…」
という回答では、顧客は文句はいわないまでも、もっと速く届けてくれるお店に流れてしまうのだ。
企業は顧客を取られたくないから、企業努力として納期を短くする努力をする。
この努力がやっかいで、この時にテクノロジーを上手く活用できれば良いのだが、
多くの中小企業は「人が頑張る」ということになってしまう。
すると、この頑張る人たちはとても大変だ。今までよりも速く、正確に仕事をこなすことを求められ、
場合によっては夜遅くまで働かないといけない。
彼らの幸福度はあがっているのだろうか?きっと疲弊して幸福度はさがっているに違いない。
この例は極端だとしても、私たちは何でも速さを求め過ぎではないだろうか。
ビジネスシーンでもなるべく速く欲しいという「なるはや」や「とりあえず明日中」が横行している。
そもそも、そんなに緊急でやらなければならないこと、手に入れなければならないものなど、
そうそうない。
家族が急に体調を崩して今すぐ薬が欲しいとか、大事なプレゼンで急にデータが必要になった、
というケースは全体として一部なはずだ。大抵の事柄は緊急性もないし、待てばいいだけなのである。
それを誰もが待てないから、なぜかいつも皆んな忙しそうにしていて、楽しそうじゃない。
「せっかちな私たちの消費態度」が、生産者になったときの自分の首を締めているのだ。
資本主義の限界?②
もう1つ大きな問題がある。それは、利益が増えると人は幸せになるのか?ということ。
世の中には実にさまざまな商品やサービスがある。
どの商品にも企画・開発・流通・マーケティングなど、その商品をうみだすために一生懸命仕事に
取り組んだ人がいるので、彼らの努力や仕事の姿勢は素晴らしいと思う。
ただ、その商品は「無くてはならない(must have)」よりも「あった方が良いかも(nice to have)」
レベルのが多いのも事実。nice to haveなもを買ってそこそこ幸福度が高まったとしても、
それらが家の中で塊になったとき…多くの場合は「なんでこんなに買ってしまったのだろう?」と
最終的には後悔が残る。皆さんも心当たりがあるのでは?私にもしょっちゅうある。
それらは本当は買わなくてよかったもの達なのだ。
せっかく稼いだお金で、なんとなく色んなnice to haveを集め、結果後悔している…って、
お金をだして後悔を買っているようなもの。そう考えるとだいぶ悲惨である。
発展途上国のように生活インフラが未整備で、必要なモノやサービスが不足している状況においては、
利益が増えること、商品が増えることは幸せにつながる。しかしある一定水準の発展を終えると、
モノが増えても幸福度は増えない。だったらコト(体験)ならどうだろう?面白いコンテンツならどうだ?
と商品やサービスを開発しているのが現在だが、世の中に財を増やしているという点では似たり寄ったり。
もはやどんな財であってもnice to haveであることから逃れられない。
つまり幸福の最大化にはつながりにくい。
グローバル化というのは、財の世界展開。欧米→東アジア→中国→東南アジアのように、
財が少ないエリアめがけて各企業が進出を図っていくが、戦争している国以外で残っているのは
アフリカ大陸くらい。アフリカ大陸が資本主義で覆われたら、世界中のほとんどで過剰な財が
生産され始め、世界がますます高速化する。その先にまっているのは本当に幸福なのだろうか?
ではどうしたら良いのか?
私も本件について確固たる解を持っていないけれども、有効だと思える行動はある。それは、
生活者として「スピード追求を止める」「本当に必要なものだけを買う」「ものを長く使う」こと。
老子がいう「足るを知る」の精神である。
とにかくモノにしろ、コトにしろ、情報やコンテンツにしろ、結局すべてが瞬間消費になっていて、
消費サイクルが速すぎることが根本的な問題であるように思う。
消費サイクルが速くなっているのは消費者が飽きっぽくなったからだ、という声もよく聞くが、
昔と比べて人間の本性が飽きっぽくなったという実感も特に無い。
(まぁ昔には生きていないのだから、実感が無いのは当たり前なだのが、
人間の本性って古今東西、大差ないモノだとおもっている)
飽きっぽくなったというよりは、インターネット・スマホ・SNSなどの爆発的普及によって、
とにかく情報が溢れすぎていて、あらゆる物事の比較対象が膨大にふくらんだ結果、
「目移りしやすい環境がうまれた」ことが消費サイクル高速化の原因だと思う。
スマホやSNSの普及以前は、自分が気に入った商品を買ったとして、
比較対象となるのは自分がよく時間をともにするコミュニティの人々が中心で、
家族・友人・職場の同僚などが挙げられる。比較対象はせいぜい数十人だろう。
このような狭い世界であれば、カブることも少なく、また自分が選んだの以上の商品に出会う確率も
低かったに違いない。したがって自分の選択に満足できたし、他人を羨む機会も少なかったのだと思う。
しかし今や日本だけでなく、世界中の人々とつながれる時代であり、
インターネットの世界にはおびただしい商品自慢、体験自慢、幸せ自慢が溢れている。
投稿する側は「いいね」がつくと嬉しくなる気持ちもわかるが、それ以上に多くの人々に「もやもや」を
与えているのがSNSではないだろうか?
でも、その「もやもや」は口にしてしまうとより強い感情になってしまうので、みんな口にしない。
しかし確かに心の中に根付いている。
人は他人と比べずにはいられない習性を持っている。
これだけ比較対象が膨らんでしまうと、比べれば比べるほど目移りしてしまい、
自分の選択に満足できなくなり、幸せは遠のいていくように思う。
しかし、このデジタル化時代の波はもはや不可逆で不可避であるから、
幸せになるためには私たちが変わらなければならない。
さて、ようやく結論である。
消費サイクルをゆるめ、大量生産大量消費のサイクルから抜け出すためには、私たちが生活者として
「他人と比較しないで済むように、情報接触を減らす」
「本当に自分が欲しいものを明確にして、それだけを買う・体験する」
「足るを知る」
という姿勢で暮らすことなのだと思う。
結局、大切なことはずっと昔から言われ続けていることだったりする。